ブルーレジェンドからのメッセージ 第1回 勝澤要さん

経歴
⽣年⽉⽇ 1939年(昭和14年) 5⽉4⽇
出身校 1952年(昭和27年) 袖師町⽴袖師⼩学校 卒業
1955年(昭和30年) 静岡⼤学付属静岡中学校 卒業
1958年(昭和33年) 静岡県⽴清⽔東⾼校 卒業(10回生)
1962年(昭和37年) 東京教育⼤学 卒業
現職 NPO法人清水サッカー協会 副会長
藤枝明誠高等高校 監査役
サッカー部での成績
(監督時)
1966年(昭和41年)監督就任
1972年度 全国高校総体 ⼭形⼤会 優勝
1974年度 全国高校サッカー選手権大会 第53回⼤会 準優勝
1980年度 全国高校総体 愛媛⼤会 優勝
1980年度 全国高校サッカー選手権大会 第59回⼤会 準優勝
1981年度 全国高校総体 神奈川⼤会 優勝
1982年度 全国高校サッカー選手権大会 第61回⼤会 優勝
1983年度 全国高校サッカー選手権大会 第62回⼤会 準優勝
その他 静岡県国体選抜チーム・監督
著書 『イレブンよ熱き大地を駆けろ』(1986年)

母校への帰還と「打倒・藤枝東」

まずは1966年、27歳の頃に清水東高校に赴任されてサッカー部の監督に就任されましたね。
そう。昭和41年でした。
赴任が決まった時はどんな気持ちでしたか?
私は現役時代、残念ながら藤枝東に一回も勝つことができませんでした。だから、なんとしてでも藤枝東を破りたいという思いが常々ありました。当時は藤枝東の全盛時代でしたが、ぜひ母校の監督になって藤枝東を破りたいというのが私の一番の思いでした。そして昭和41年に赴任してから7年後の昭和47年、初めて全国高校総合体育大会(以下、インターハイ)の全国大会で優勝しました。本当は藤枝東と決勝で戦うことができればよかったのですが、藤枝東は途中で負けてしまい、秋田商業と決勝を戦いました。そこで藤枝東に勝った秋田商業に勝ち、優勝することができました。実質的に藤枝東に勝つことができたという思いがこみ上げ、とても感慨深かったです。およそ8年越しの勝利(のようなもの)ですからね。藤枝東を倒したというのが一番大きな出来事でした。
そうした就任したばかりの頃、チームの雰囲気や部員の印象はどんな感じでしたか?
早朝練習を一生懸命やっていたことを思い出します。また、終わった後には50mダッシュを20~30本をやったり、時には近隣の秋葉山の階段で厳しい上り下りをやったりしたこともありました。
選手たちは必死に食らいついてきた、という印象でしたか?
食らいついてきましたね。
選手から「やってやろう」という意欲を感じましたか。または「これは大変だな」という後ろ向きなものでしたか?
選手からは反発とかもなかったですし、素直に、従順にやってくれていた印象です。
そんな就任まもなくの頃、勝澤先生がまずチームに対して着手された指導はどんなことでしたか?
サイドからセンタリングして真ん中で決めるというオープン攻撃が一つのサッカーの鉄則だと思っていました。サイドからセンタリングして真ん中で決めるという形です。当時は青島(秀幸|35回生)とか武田(修宏|38回生)とかセンターフォワードに素晴らしい選手がいたので、そこに合わせるというのが一つの武器になると思っていました。だからオープン攻撃というのが一つの大きな狙いでしたね。
そうした戦術に対して、生徒たちの反応はどうでしたか?当時、藤枝東はショートパスをつなぐサッカーを主体としていたと文献で読んだのですが、そうした藤枝東のスタイルに対して、このオープン攻撃というものをどう吸収していった印象ですか?
当時は右サイドと左サイドにいいウイングの選手がいました。そうした選手たちを活かすための戦術でした。そこから真ん中にセンタリングして決めるというのが鉄則でした。
戦術に合わせられるような選手たちが揃っていたという印象でしたか?
揃っていましたね。選手はみなレベルが高かった印象です。今では静岡市と合併してしまったけれど、当時の清水東といえば地域の中でも一番の名門校で、清水東を目指して、大きな意志を抱いて入ってくる生徒が多かった。そうした時代背景もあったとは思います。
ではまた試合の話に戻ります。先生が最も忘れられない試合はどの試合ですか?
よくぞ聞いてくれました。全国優勝した第61回全国高校サッカー選手権(以下、「選手権」)の県大会決勝です。東海大一高に3-2で勝った試合ですが、1-2で負けていて、もう終わったと思ってお客さんが席を立とうとした瞬間、終了の3秒前でしょうか、MFの望月哲也(35回生)がロングシュートを決めました。それが一つのきっかけになって、(延長戦で)大榎克己|36回生)のボレーシュートが決まりました。
右サイドからのシュートでしたね。
そう。40mはあったのではないかと思います。
その試合を制して決めた全国大会では、決勝まで進みました。大観衆で埋め尽くされた国立競技場は今も鮮明に思い出しますか?
(観客の数が)6万2千人ですからね。競技場に人が入りきれないくらいだったと聞いています。
6万2千人の前で校歌を歌ったわけですよね。
素晴らしい瞬間でしたね。
清水東の青のユニフォームにどんな思いを抱きますか。今も当時も、変わらぬ思いがありますか?
青というのは清水の街を象徴する色です。特に国立競技場に6万2千人の大観衆が集まった高校選手権の決勝・帝京戦の前、青いジャージを着て、文京区の「つたや」という旅館から会場入りするのですが、大勢の小学生たちが清水東を応援してくれて、すごく誇らしかったのを思い出します。

文武両道と歩んだ21年

少し視点を変えさせていただきますが、勝澤先生が指導される中で大切にされていた信念は何でしたか?
清水東というのは、サッカーだけやっていればよいのではなくて勉強も大事です。(先述の)大榎は早稲田大学にいきましたし、長谷川健太(36回生)は筑波大学に行きました。反町(康治|34回生)なんかは慶應大学に行きましたからね。「文武両道」というのが大きな指導の信念でしたね。
そこに関してはぶれずに続けてこられたということですね。
進学率を維持しながら勝つというのは大変なことでしたけどね。
21年間という指導期間については、どう感じていますか。
21年間もの間、同じ学校を担当するというのは、これまでの県の高校教員の歴史の中でもなかったことですから、まずそんなに長くなるとは思ってもみませんでした。「もうクビになるだろうな」と思っても、なかなか変わらず21年も続いたという感じですが(笑)。思い返すと、私にとっては何か一つの勲章のようなものですね。
赤子が成人するほどの期間ですから、途轍もなく長い期間ですね。
1つの学校に21年間も務めるということは滅多にないことで、しかもそれが母校で務められました。しかもその間にインターハイを3回優勝し、選手権も優勝できました。これほど光栄なことはないです。
チーム強化のために取り組んだ施策などはありますか?例えば各地への遠征試合なども多かったのですか?
遠征というのはそれほど多くなかったですが、思い出すのは校内でやっていた合宿です。全国大会に出る前には必ずやりました。(旧)体育館の上に合宿所があって、そこに選手たちの母親皆さんが全員集まってご飯を作ってくれました。100人以上の選手がいて、温かいご飯を食べ、母親の愛情を受けながら、合宿を行っていました。そんなことは今時滅多にないことですよ。
日常の練習や試合の中で、印象的だった出来事はありますか?
部員の追試が多くてずいぶん苦労したことがありましたね。追試が多いと試合に出させなかったりもしました。生徒とのやりとりで思い出すのは、(先述の)青島です。非常に負けん気が強いので印象的でした。少しパスが乱れると怒って「ここに出せ!」と言うような珍しい男で、彼への指導の中では「もう辞めろ」と言ったこともあったほどです。彼だけでなく、全部員に対して、生活のことも含めてかなり厳しく指導をやってきたつもりです。
追試の件の指導に関しては、先ほどおっしゃられていた「文武両道」という方針に基づくものですね。
部員の追試が3つも4つもあることもあり、部活動に支障があったこともありました。それでも皆が大学にきちんと行けたということは、それなりに方針があったからこそだと思います。長谷川健太なんかも筑波大学に行くにはそれなりに勉強しなきゃいけないということで、選手権が終わってからもとにかく必死になって、一生懸命勉強していたことを覚えています。
当時の部員の皆さんは、選手権が終わってからの短い期間、必死に勉強したのですね。
特に(先述の)反町なんかは変わっている男でね、推薦入学での進学が絶対に嫌だったようで、1年浪人して、実力で慶應大学に入学したことを覚えています。彼は異端児といいますか、全日空へ入社してからプロ契約するのも最後でしたしね。
反町さんと同じく、長谷川健太さんも現在Jクラブの監督として活躍されていますね。
そうですね。毎年1月1日に長谷川健太はここに来て、1年の抱負を話してくれていますが、彼にいつか日本代表の監督になってほしいと思って期待しています。

伝統のブルーとSマーク

話題を変えますが、エンジのジャージのマーク、あれはドイツ語の「S」であるということを現サッカー部OB会の方から伺いました。
あれはサッカー部を創設してくれた方で、私の恩師でもある福井半治先生がドイツ語のSを変形させて作ったものです。
それはSOCCERの「S」という意味なのですか?
そのとおりです。
いろんなOBの方に聞いたのですが、誰も本当の理由を知りませんでした(一同笑)。「SHIMIZU」のSという可能性もあったので迷っていましたが、謎が解けました。恥ずかしながら我々もこのマークの意味を知らずにプレーしていました。
そうしたことに興味を持っていただき、嬉しいです。
先ほどおっしゃられた福井半治先生が作られたのですね。
そうです。私の恩師であり、サッカー部を創られた方で、部長を務められていました。後に校長にもなられました。
もう一つ興味があるのが、エンジジャージの色です。何か特別な意味があったのでしょうか。
エンジの色には特別な意味はないですが、青だと汚れてしまうということと、どちらかというとレギュラーでない選手が着ていましたね。
確かに我々の世代でもレギュラーが青を着て、Bチーム以下はエンジを着ていた印象です。なかなかエンジの壁を越えられないでもがいた記憶もあります(笑)。そうしたことが当時からあったのですね。
そうですね。ありましたね。

現役生、そして、これから清水東を志す若者へ

ここからは、いくつか先生の核心に迫る質問をさせていただきたいと思います。まず、ご自身にとって、清水東は一言で表現するとどんな存在ですか。
私にとっては本当に「誇るべき母校」という一言に尽きます。それだけ母校に長い期間在籍させてもらい、しかもいろいろな大会で優勝させてもらった。これほど幸せなことはないと思います。母校清水東というのは私にとって、私を育ててくれた、本当に素晴らしい学校だということです。
21年間の在任期間の中でよい時もあれば悪い時もあったかと思います。様々な経験の中で最も学んだことや得られた教訓は何でしたか?
一番は「一生懸命努力すれば、必ず報われる」ということでしょう。21年もの間、なかなか外の学校に出ていなかったということも一つの理由ではあるのですが、私は清水東で勤めた後、すぐに県の教育委員会に異動となりました。そこにすぐに入れたというのは、21年間の私の努力を評価してくれたということです。教育委員会の後も浜松西高校の教頭、その後、熱海高校、掛川西高校で校長を務め、県の職員を退いた後も藤枝明誠高校で校長を務めることができました。一生懸命努力すれば報われる、道が開けるということを感じました。
今、現役の生徒に対して、贈る言葉、伝えたい言葉があるとすればどんな言葉でしょうか?
「本気でやれ」ということだと思います。彼らの気持ちや情熱みたいなものが、なかなか伝わってこないように思います。
一瞬一瞬を無駄にするなということですね。
青春のすべてを懸けてやるとか、そういうことです。一瞬一瞬に気持ちが出てこないと勝つことは難しい。
やはり「気持ち」の部分ですか。
試合や練習を他人が観ていて「あぁ、一生懸命やっているな」と感じるようでないと。指導している監督やコーチの皆さんにも、生徒が本気でやっているかどうかという点はぜひ大切にしてもらいたいです。観ている方が「なるほど」と思えるほどの気持ちを、もっともっと前面に出してもらうように導いてほしいと思います。ただ、時代も変わって、今や清水東を卒業後にJリーガーになった生徒が、引退して公立高校の教員になっていたりもしています。今の監督が悪いと言っている訳ではないのですが、本格的な経験をした卒業生が、本格的な指導をするようになれば、もっともっと良くなるのではないかと思います。
現役生たちはきっとそれぞれ一生懸命やっているのだとは思いますが、それでも観ている方がそう感じてしまうのですから、選手の気持ちやモチベーションを管理するのは指導者にとってはとても難しいことなのだとお察しします。一方、勝澤先生が指導されていた頃は、どのように選手たちに声をかけ、どのようにチームを一つにまとめていたのでしょうか。日頃から先生が厳しい叱咤を掛けられていたのか、それともチームの中心になるような選手がいて、彼らのまとまりを促していたのか、どんな手法を取られていたのか教えていただけますか?
よくハーフタイムには厳しい言葉を掛けましたね。「このまま負けてしまっていいのか?」などと言いました。がらっとチームの雰囲気が変わったこともありましたね。精神力ですね、そういう面では。
試合会場で「ねばれ、はしれ、清水東」という横断幕が今も掲げられていますが、あれは勝澤先生が就任の時に作られたメッセージなのですか?
あれは私ではなく、当時部長だった福井半治先生が富山国体(1958年・昭和33年)に行ったときに電報で送ってくれた「ねばれ、走れ」がそのまま横断幕として固定されたのです。福井先生は静高から清水東へ赴任されてきて、当時のサッカー部の監督は澤田眞養先生でした。当時広島大学から教員になられて、野球の監督からサッカーの監督になられた方でした。
これが最後の質問です。いろいろな進学先の選択肢がある中で、これからまさに清水東の門を叩こうとしている中学生や、または清水東に進もうか迷っている生徒に対して、今言葉をかけるとしたらどんな言葉を贈りたいですか?
保護者は清水東に子どもを入学させれば「文武両道」は成し得たものと思ってしまいがちですが、実際は違います。入ってからの精神力、やってやる、やればできる、という強い気持ちが重要になります。
私たちもそれは経験しました。それなりに勉強はしてきて入学したつもりでも、その勉強が同じレベルで続くかというとそうではなく、サッカー部の練習の厳しさの中で両立をしていくというのはすごく難しかったという印象があります。
勉強もサッカーも精神力が必要です。それが足りていないと初志貫徹は果たせない。
これから入学してくる中学生となると、精神力という面でもまだまだ未熟なことがあるかと思います。そうした中学生の成長段階において、清水東での生活がどんな意味を持つのか、また、どんな力を培うきっかけとなるのでしょうか。
繰り返しになりますが、とにかく初志貫徹する力を養う場なのだと思います。自分の思いを最後まで貫き通すことを学ぶ場なのでしょうね。
そういう意味では、本気で清水東を目指す選手が出てこないと、なかなか変わらないのでしょうね。
かつて清水東高校は地域の名門校でしたが、静岡市と合併してからは2番手3番手の学校になりつつあります。これから清水東に入る子ども達には、ぜひ「他の学校に負けてなるものか」という強い精神力をもって頑張ってほしいと思います。